江戸時代
田中家がいつから建築工事に携わったかは明らかではありませんが、江戸時代も終わりに近づいた頃、丹波の職人であった田中儀助が一族とともに江戸に上り、赤坂の地に居を定めたといわれています。田中一族は、やがて井伊家の出入職人となります。江戸時代、職人の営業権はなかなかうるさく「札」「鑑札」を得ていなければ職人としての渡世は認められませんでした。一定の年限、きびしい徒弟生活を終えたあと、ようやく親方から「札」を貰い、さらに仲間の承認を得た上で、はじめて一人前の職人として自立できたのです。しかし、これは古くからあった制度ではなく、江戸後期、農村から都市部に流入する人口が急増し、さまざまな分野で既存の職業人たちの権益を侵しはじめました。これに対抗し、いわば既得の権益を守るために「札」の制度が形づくられていったのです。
《江戸切絵図-赤坂近辺》
江戸に上った儀助はその住まいを赤坂田町1丁目に求めたといわれる
右に掲げたのは、嘉永4(1851)年の《井伊掃部頭様御出入御鑑札譲状》です。左官職源六の死後、その後家から同じ左官職の鎌三郎へ左官場が譲られたことを証するものです。この書状には後家の後見人として田中喜三郎の名が記されています。このことからも、すでに幕末には初代田中亀次郎(土木建築請負業)と喜三郎(いわゆる初代喜三郎以前の人物)のコンビはできあがっていたと推察されます。そして井伊家において苗字御免という相当の立場を許された田中家は、当時、市井の大工棟梁が請負業者に転じていったと同様に、田中亀次郎が請負業全体を取り仕切り、田中喜三郎が左官部門を担いながら家業全体の発展をめざしていったと思われます。
《井伊掃部頭様御出入御鑑札譲状》
9件の左官場が明記されており、それが鎌三郎へ譲渡されたことが示されている。左から2行目に喜三郎の署名・捺印がある。